沖縄発展の基礎を築いた
第8代沖縄県知事・奈良原繁
そ の 60
琉球入り後の半世紀
琉球入り後の半世紀は、土府では尚寧から尚豊、尚賢を経て尚質に至り、先ず聖人按司がなしと呼ばれた具志川王子尚享が摂政の職につき、身を以て衆を率いる態度に出で、次いで有名な向象賢が積極的に制度の革新に乗り出した。
この間の首里王府は内外の新情勢に対して受動的であり、ひたすら島津の政策に引きずられた形であった。
この間におこったことを球陽その他から拾って見よう。
尚寧が鹿児島から帰った1611年仕上世座がおかれた。島津氏への貢納を司る役所で、最初の仕上世奉行は大頭といわれた我那覇秀昌、この人はまた最初の大和通事であった。
1625(尚豊5)年に算用座がおかれた。諸役所の歳出入、諸知行給与、貢船装戴貨物等に関する役所であった。
1627(尚豊7)年に首里城内に南殿を建てた。冊封使のための北殿に対し、薩摩からの役人を接待するために新しく設けられたものであった。
1636(尚豊16)年総山奉行がおかれた。これは本来は山林を管理する役所であるが、
鬼利支丹宗の札改めの事務も取扱った。
島津の方では前年宗門手札改めが行われ、、沖縄へもその指令が及んだのであった。
同年おかれた異国奉行も、同じく切支丹に関するもので、この時代になって異国船、異国人の漂着あり、したがって切支丹に関係する事件もおこるようになった。
1638(尚豊18)年那覇に在番奉行の館ができ、仮屋と称された。その34年前に、薩魔から道雪入道兼詮が来て大和横目の職に就いた。この人は琉装して沖縄人並びに島津の駐在員の行動を監視した。
1644(尚賢4)年に烽大の制が設けられた。俗にいう火立毛のことで、久米島、伊平屋をはじめ周辺の島々及び沖縄島の高い嶺々で烽火をあげて、貢船の来着を首里に通報する設備であった。これは貢船には蜂火一点、異国船に三点ときめて、異国船にも適用された。
1654(尚質7)年農村居住者が首里、那覇、久米村、泊村の都会地に移住することが禁止された。この頃から離農して都会居住の特典にあずかろうとする者があったと見える。
この時代にはいろいろの技術が移入された。木綿布、陶工、製糖法についてはすでに述べた。その他八丈織、造筆、嵌螺、指物等の技術が.主として薩摩の方から伝わり、また喫煙の風もこの時代に本土の方から来たようである。
島津氏への貴納も、尚豊15(1635)年には最初の増額があり、同時に上木という雑種税が加えられた。
たびたびの風害で五穀実らず王府の財政が苦しくなり、1633年の尚豊の冊封の時には、その費用がととのえかねたので、糸満という財産家が米30石を献じて大いに賞されたこともあった。
それから13年後の1645年には、砂糖と欝金の専売制を設けて、その利益で島津氏への負債償還に充てるようになったが、これを機縁にいわゆる貢糖制がはじまった。
なお、おもろさうしの第2巻が1613年(尚寧の24年)、第3巻以下が1623年(尚豊の3年)に編集された。
(第1巻は尚真の次の尚清6年(1532に編集されていた、)第1巻の編集以来80年、そのまゝになっていたこの編集が、琉球入りによる社会の変革の時代に、改めて第2巻以下の編集が行われたのは、どういうわけであろう。
新しい不安の時代に、昔ながらの固有信仰が人々の心の底で、かえりみられたのに起因するのではなかっただろうか。
元一般社団法人・万国津梁機構 理事長仲里嘉彦
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