2021年07月23日

沖縄県発展の基礎を築いた第8代沖縄県知事・奈良原繁



    沖縄発展の基礎を築いた

   第8代沖縄県知事・奈良原繁




そ の 89


島津の積極的外交

斉彬の新外交政策


 財政立てなおしにつとめていた薩摩では、1851(尚泰4)年藩主斉興が隠退して長子斉彬が43歳で封を襲いだ。

これより先き斉彬は世界の形勢に通じ識見高きを以て聞こえ、阿部大老の信頼を得ていた。1844年仏艦が沖縄に来て日本外交の転機を示唆した時、幕府が琉球における外交措置を薩州に一任したのも彼あるがためであった。

彼は許されたこの権限を大いに自藩のために利用した。

彼は藩財政を充実せしめ軍備を整えるために附庸国たる沖縄の国際的地位を利用して、外国貿易を拡張しその上西洋の文物を取り入れる方策を立てた。

19世紀40年代以来の沖縄における外交々渉は、すべて彼の方針によるものであったが、今や彼は更に積極的になった。

1844年来、在番奉行の外に守衛方を那覇において、対外交渉に備えていた斉彬は更に新しい企画につき、国王摂政三司官に機密を伝えるために、信頼している従臣市来四郎を沖縄に遣わすことにした。

市来四郎ほ1857(尚泰10)年1010日、ちょうど和蘭船が帰ろうとするところに、斉彬の密命を帯びて沖縄に来た。彼の用向は在番奉行にさえ洩らさないよう注意が与えられていた。

11月3日 、彼は王叔玉川王子、摂政大里王子、三司官池城親方、小禄親方、物奉行恩河親方、通事大湾親雲上及び豊見城按司等数名をその旅宿に招き、斉彬から尚泰に対する密命の趣を伝達した。この時国王尚泰は未だ15歳の少年であった。

 市来は王府の要人とあらかじめ懇談したわけであるが、三司富の座喜昧親方が除外され、通事の大湾親雲上が 微官ながら特に加えられたのは注意すべきことであった。

懇談の主題は⑴ 琉琉大島、それからおいおいと山川港で和蘭ならびに仏蘭西と貿易を開くこと、⑵ 蒸汽船を仏国から買い入れること、⑶ 英米仏の三国へ留学生派遣のこと、⑷ 台湾島の内便利の地に渡唐船の碇泊場を設けること、⑸ 福州の琉球館を取り拡げて商法を盛大にすること、⑹ 渡唐商人をして大砲を中国に売り込ましめること、⑺ 座喜味三司官の処分に関する件等であった。

市来は各項について詳細に説明し、異議なく引き受けて国王の請書を差出すようにと申付けた。一同は愕然とした。困惑したように、皆頭を垂れたまま一言も発しない。

何の返事もなかったが、しばらくして三司官の池城親方が口を開いて、御内達の趣きは一々容易ならぬことである。

とにかく国王に伝えてそれからまた御願いすることもあろうからと、やっとこれだけの返事をした。

市来はこのことは世界の情勢から、時勢止むを得ない場合に立ち至り、斉彬の深い考慮から出た方策であって、単に交易を主とするのではない。

日本の安危にかかる大事を中山王が引受け、日本の雑題を打開するわけであるからと、くり返し説明し、遅怠なく卸請書を差し出すようにと命令して懇談は一応終った。

市来はその時特に恩河と大湾だけを居残らせてなおも懇談した。

するとすでに鹿児島で山田壮右衛門から斉彬の趣旨の概略を聞いていた恩河は、時勢上御もっもな御措置と敬服、異論はないといい、元来外国の事情に明るい大湾も、今まで通りのやり方では一大国難を引き起し、はては外国の支配を受けるに至るは必然である。

清の大国さえ広東の地を彼ら外国人に渡したようなことで、寸鉄もない琉球の小国で彼らの横暴を防ぐ道はない。何につけても御国(薩摩)の御威光によって琉球の国を全うするより外に道はない。

その上日本国の安危にかかわる訳合もあるのだから、御趣意に違わず御請けするのが琉球にとって万全の良策と思うといった。



              元一般社団法人・万国津梁機構 理事長仲里嘉彦

                        沖縄県浦添市屋冨祖2丁目19

              TEL098−8768896 FAX0988768473











posted by 万国津梁 at 06:33| 沖縄 ☔| Comment(0) | 自治新報年度別一覧 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする