2021年08月11日

沖縄発展の基礎を築いた第8代沖縄県知事・奈良原繁



    沖縄発展の基礎を築いた

   第8代沖縄県知事・奈良原繁




そ の 108


 この税制上の優遇措置とは具体的には日本鉄道と政府との関係は、特許条約書に示されており日本鉄道は政府によって様々な特典を与えられるとともに、見返りとして義務の制限を課された。

特典としてあげられるのは、@官有地にある線路や停車場などの鉄道用地や建築物の無償貸し付け。A民有地買収では、政府が買い上げて日本鉄道に払い下げする。 

B鉄道用地の国税免除。C株主の出金に対して建設期間中の年8分の利子補給・開業後、純益が年8分に不足する場合には、各区で異なるが、1015年にわたり不足利子を補う。D東京〜前橋間の建設工事は差栄府が代行する。第1区〜第5区建設工事の鉄道局への委託などであった。

E社用電信線を官有電柱に使用できるなど、私設鉄道でありながら官設鉄道の趣を呈していたのである。

 しかも日本鉄道の資本金は2,000万円と当時の沖縄県の年間予算の約20年分に相当する金額である。

 日本鉄道には、1881年4月に発起人総会で資金調達方針について意見が分かれ、紛糾したことがあったものの、5月には,池田章政(当時第十五銀行頭取ほか461人連名で創立願書と特許に関する請願書)を提出した。

 発起人の出資額によると第十五国立銀行の出資が130万円、三菱関係が約45万円、天皇関係が約35万円、華族個人関係が約70万円、福島県300万円、宮城県1,200万円、埼玉県250万円、栃木県250万円のほか、各県では郡役所を通じて戸長にわり当てたり地元有力者に引き受けさせて株主を募集した。

 日本鉄道は、民間企業の形態を取りながらもわが国を代表する大企業や国立銀行、華族さらに皇室からも出資するという国家的大プロジェクトが国のあらゆる優遇措置をもって事業が進められた一方、沖縄においては沖縄県や明治政府の何等の優遇措置を講ずるこことなく、裸の状態で鉄道事業を起こすことは日本鉄道建設に携わった大久保利昭からすれば、無謀な冒険といわざるを得ない。

このような意味では、却下されたほう莫大な借金を抱えて苦労するより、大久保利昭にとってむしろ幸いだといえると思えてならない。



              元一般社団法人・万国津梁機構 理事長仲里嘉彦

                        沖縄県浦添市屋冨祖2丁目19

              TEL098−8768896 FAX0988768473





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2021年07月23日

沖縄県発展の基礎を築いた第8代沖縄県知事・奈良原繁



    沖縄発展の基礎を築いた

   第8代沖縄県知事・奈良原繁




そ の 89


島津の積極的外交

斉彬の新外交政策


 財政立てなおしにつとめていた薩摩では、1851(尚泰4)年藩主斉興が隠退して長子斉彬が43歳で封を襲いだ。

これより先き斉彬は世界の形勢に通じ識見高きを以て聞こえ、阿部大老の信頼を得ていた。1844年仏艦が沖縄に来て日本外交の転機を示唆した時、幕府が琉球における外交措置を薩州に一任したのも彼あるがためであった。

彼は許されたこの権限を大いに自藩のために利用した。

彼は藩財政を充実せしめ軍備を整えるために附庸国たる沖縄の国際的地位を利用して、外国貿易を拡張しその上西洋の文物を取り入れる方策を立てた。

19世紀40年代以来の沖縄における外交々渉は、すべて彼の方針によるものであったが、今や彼は更に積極的になった。

1844年来、在番奉行の外に守衛方を那覇において、対外交渉に備えていた斉彬は更に新しい企画につき、国王摂政三司官に機密を伝えるために、信頼している従臣市来四郎を沖縄に遣わすことにした。

市来四郎ほ1857(尚泰10)年1010日、ちょうど和蘭船が帰ろうとするところに、斉彬の密命を帯びて沖縄に来た。彼の用向は在番奉行にさえ洩らさないよう注意が与えられていた。

11月3日 、彼は王叔玉川王子、摂政大里王子、三司官池城親方、小禄親方、物奉行恩河親方、通事大湾親雲上及び豊見城按司等数名をその旅宿に招き、斉彬から尚泰に対する密命の趣を伝達した。この時国王尚泰は未だ15歳の少年であった。

 市来は王府の要人とあらかじめ懇談したわけであるが、三司富の座喜昧親方が除外され、通事の大湾親雲上が 微官ながら特に加えられたのは注意すべきことであった。

懇談の主題は⑴ 琉琉大島、それからおいおいと山川港で和蘭ならびに仏蘭西と貿易を開くこと、⑵ 蒸汽船を仏国から買い入れること、⑶ 英米仏の三国へ留学生派遣のこと、⑷ 台湾島の内便利の地に渡唐船の碇泊場を設けること、⑸ 福州の琉球館を取り拡げて商法を盛大にすること、⑹ 渡唐商人をして大砲を中国に売り込ましめること、⑺ 座喜味三司官の処分に関する件等であった。

市来は各項について詳細に説明し、異議なく引き受けて国王の請書を差出すようにと申付けた。一同は愕然とした。困惑したように、皆頭を垂れたまま一言も発しない。

何の返事もなかったが、しばらくして三司官の池城親方が口を開いて、御内達の趣きは一々容易ならぬことである。

とにかく国王に伝えてそれからまた御願いすることもあろうからと、やっとこれだけの返事をした。

市来はこのことは世界の情勢から、時勢止むを得ない場合に立ち至り、斉彬の深い考慮から出た方策であって、単に交易を主とするのではない。

日本の安危にかかる大事を中山王が引受け、日本の雑題を打開するわけであるからと、くり返し説明し、遅怠なく卸請書を差し出すようにと命令して懇談は一応終った。

市来はその時特に恩河と大湾だけを居残らせてなおも懇談した。

するとすでに鹿児島で山田壮右衛門から斉彬の趣旨の概略を聞いていた恩河は、時勢上御もっもな御措置と敬服、異論はないといい、元来外国の事情に明るい大湾も、今まで通りのやり方では一大国難を引き起し、はては外国の支配を受けるに至るは必然である。

清の大国さえ広東の地を彼ら外国人に渡したようなことで、寸鉄もない琉球の小国で彼らの横暴を防ぐ道はない。何につけても御国(薩摩)の御威光によって琉球の国を全うするより外に道はない。

その上日本国の安危にかかわる訳合もあるのだから、御趣意に違わず御請けするのが琉球にとって万全の良策と思うといった。



              元一般社団法人・万国津梁機構 理事長仲里嘉彦

                        沖縄県浦添市屋冨祖2丁目19

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2021年06月17日

沖縄発展の基礎を築いた第8代沖縄県知事・奈良原繁



    沖縄発展の基礎を築いた

   第8代沖縄県知事・奈良原繁



そ の 60


琉球入り後の半世紀


 琉球入り後の半世紀は、土府では尚寧から尚豊、尚賢を経て尚質に至り、先ず聖人按司がなしと呼ばれた具志川王子尚享が摂政の職につき、身を以て衆を率いる態度に出で、次いで有名な向象賢が積極的に制度の革新に乗り出した。

この間の首里王府は内外の新情勢に対して受動的であり、ひたすら島津の政策に引きずられた形であった。

 この間におこったことを球陽その他から拾って見よう。

尚寧が鹿児島から帰った1611年仕上世座がおかれた。島津氏への貢納を司る役所で、最初の仕上世奉行は大頭といわれた我那覇秀昌、この人はまた最初の大和通事であった。

1625(尚豊5)年に算用座がおかれた。諸役所の歳出入、諸知行給与、貢船装戴貨物等に関する役所であった。

1627(尚豊7)年に首里城内に南殿を建てた。冊封使のための北殿に対し、薩摩からの役人を接待するために新しく設けられたものであった。

1636(尚豊16)年総山奉行がおかれた。これは本来は山林を管理する役所であるが、

鬼利支丹宗の札改めの事務も取扱った。

島津の方では前年宗門手札改めが行われ、、沖縄へもその指令が及んだのであった。

同年おかれた異国奉行も、同じく切支丹に関するもので、この時代になって異国船、異国人の漂着あり、したがって切支丹に関係する事件もおこるようになった。

1638(尚豊18)年那覇に在番奉行の館ができ、仮屋と称された。その34年前に、薩魔から道雪入道兼詮が来て大和横目の職に就いた。この人は琉装して沖縄人並びに島津の駐在員の行動を監視した。

1644(尚賢4)年に烽大の制が設けられた。俗にいう火立毛のことで、久米島、伊平屋をはじめ周辺の島々及び沖縄島の高い嶺々で烽火をあげて、貢船の来着を首里に通報する設備であった。これは貢船には蜂火一点、異国船に三点ときめて、異国船にも適用された。

1654(尚質7)年農村居住者が首里、那覇、久米村、泊村の都会地に移住することが禁止された。この頃から離農して都会居住の特典にあずかろうとする者があったと見える。

この時代にはいろいろの技術が移入された。木綿布、陶工、製糖法についてはすでに述べた。その他八丈織、造筆、嵌螺、指物等の技術が.主として薩摩の方から伝わり、また喫煙の風もこの時代に本土の方から来たようである。

島津氏への貴納も、尚豊151635)年には最初の増額があり、同時に上木という雑種税が加えられた。

たびたびの風害で五穀実らず王府の財政が苦しくなり、1633年の尚豊の冊封の時には、その費用がととのえかねたので、糸満という財産家が米30石を献じて大いに賞されたこともあった。

それから13年後の1645年には、砂糖と欝金の専売制を設けて、その利益で島津氏への負債償還に充てるようになったが、これを機縁にいわゆる貢糖制がはじまった。

 なお、おもろさうしの第2巻が1613年(尚寧の24年)、第3巻以下が1623年(尚豊の3年)に編集された。

(第1巻は尚真の次の尚清6年(1532に編集されていた、)第1巻の編集以来80年、そのまゝになっていたこの編集が、琉球入りによる社会の変革の時代に、改めて第2巻以下の編集が行われたのは、どういうわけであろう。

新しい不安の時代に、昔ながらの固有信仰が人々の心の底で、かえりみられたのに起因するのではなかっただろうか。



              元一般社団法人・万国津梁機構 理事長仲里嘉彦

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